絶対零度の衝撃と戦慄(下)

誰が大量殺戮国家を

自由主義国家と呼ぶようになったのか?

ラリー・モスケダ(エバーグリーン州立大学)

2001年 10月15日
通巻 1090号

★「小売り」のテロの根本原因は
国家の「卸し」のテロに

 現時点では、マスコミとアメリカ政府によって、去る火曜日の連続自爆テロはオサマ・ビラディンが黒幕だと非難されている。アメリカ国民を欺いてきたアメリカ政府の前科を考えれば、その言葉をにわかに事実として受け入れるわけにはいかない。もし本当にビンラディンが今回の犯行の黒幕であるとすれば、一万人に上るとみられる死者という衝撃的にして戦慄的な犯罪の責めを負わねばならない。エド・ハーマンは『テロ組織の実態―テロリズム、事実と歪曲』という著書で、いかなるテロをも正当化することなく、国家はもっぱらテロの「卸し」に携わることが多く、一方、各国政府が「テロリスト」と規定する人間たちはテロの「小売り」が専門であると述べている。テロの個人的犠牲者たちにとって結果は質的には同じだが、明らかに量的差異がある。そして、ハーマンやを初めとする論者たちが指摘するように、「小売り」のテロのほとんどの種子と根本原因が、国家の「卸し」のテロにあることは確かである。繰り返し言うが、これは断じて去る火曜日の犯罪行為を正当化するためではなく、あの犯罪行為を歴史の中に位置付け、一定解明することが目的である。
 仮りにビンラディンが火曜日の犯罪行為の黒幕であるとすれば、彼が有能なプロの職業軍人たちによって、平站術、武器調達法、軍事教練などのかなりの訓練を受けたことは明白である。そして事実、彼はそういう技術の訓練を受けた経験を持っている。1980年代に、彼はアフガニスタンでロシア人と戦うためにCIAに勧誘され訓練を受け、資金援助を受けたのである。彼がアフガニスタンでロシア人と彼の敵に対してテロを加える限り、彼はアフガン国内では「我々が使っている人間」だったのである。
 同じことはイラクのサダム・フセインにも当てはまるが、彼は1980年代のイラクのCIAの情報提供者であった。フセインはアメリカの同意があればこそ、自国民に毒ガス攻撃を加え、自国民を弾圧し、隣国(イラン)に侵攻できたのである。
 同じことはパナマのマニュエル・ノリエガにも言えるが、彼は1980年代、ジョージ・H・ブッシュと同時代のCIA協力者であった。雇い主ブッシュに対するノリエガの大罪は、彼が麻薬売買に手を出したからではなく(彼は、確かに麻薬売買に手を出したが、アメリカとブッシュは1989年以前にこの事実を知っていた)、アメリカに雇われたテロリストであるコントラのニカラグアに対する戦争にもはや協力しようとはしなくなったからである。 

★覇権と帝国の支配領域の保護
拡張のための国家テロ

 去る火曜日の事件に劣らず衝撃的なのは、先に述べた8百万という数字がかなり増えると思われる、あの事件より遥かに戦慄的な軍事行動を合衆国政府が起こそうとしていることである。このような対応はおそらく、質的にも量的にも火曜日の事件をはるかに凌ぐ最悪のものとなるだろう。9月14日付け「ニューヨークタイムズ」の見出しは、「ブッシュ側近の複数高官がテロ支援国家の打倒政策を打ち出す」と、さもそれが筋の通った慎重な、また正気の選択でもあるかのような口調で語っている。打倒の対象となりうることが認定された国家には、「アフガニスタン、イラク、スーダン、そしてパキスタンまでも含めた多くのアジア・アフリカ諸国」が挙がっている。これはもはや、衝撃的・戦慄的という形容に留まる内容ではない―それはハイジャッカーたちとまったく変わらない自殺行為・殺人行為になりかねず、それ以上の狂気の沙汰になりかねない。
 小売りのテロとは、道理に適った不満を抱いていることが多いが、個人的には犯罪行為・非合法活動に走る、自暴自棄の、時には狂信的な小集団や個人の行うテロである。一方、卸しのテロとは、「国益」と呼ばれる漠然たる概念を促進するために、何百万人もの人々の苦悩と苦難と死を注視し、それに対する政策を立案し、それを実行に移すことの多い「理性的な」学のある人々の行うテロである。「国益」とは覇権と帝国の支配領域の保護と拡張と要約できる。
 火曜日の事件の衝撃的にして戦慄的な映像を繰り返し息をつく間もなく見させられ、生存者と遺族による失った家族の悲痛な話を連日連夜聞かされながら、アメリカの一般大衆は戦争を覚悟し始めている。このような犠牲者の話は生々しいもので、貶め傷つけてはならない。それどころか、家族を失った人々は、これまでに命を失った8百万の人々の典型的な実例と考えることができる。
 アメリカの民衆が現在味わっている苦痛と恐怖と怒りが、8百倍から千倍に至るまで量的に繰り返されれば、絶えず犠牲になっている時、諸外国国民がどのような思いを味わっているかが理解できるようになるかもしれない。
 脳裏に浮かぶ殊の外悲痛なことの一つは、写真とチラシを持って親・兄弟・子供の行方を捜す家族の、我々が繰り返し目にし耳にしている周知の胸を締めつけられるような話である。このような光景は、アルゼンチンのような国で(主として)成人した子供の行方を捜す「失踪者たちの母親」の姿とダブッてくる。というのも、アルゼンチンではやはり合衆国の承認を得て、1976〜82年にかけて1万1千人以上の人々が「失踪」していたからである。アルゼンチンの母親たちが我々の配慮と同情に値するのと、今我が国で親戚縁者たちの行方を捜している縁戚者たちが我々の配慮と同情に値するのは、まったく等価である。

★哀しみと怒りを殺戮という国策に転化させてはならない

 しかし、マスコミと合衆国政府に操られて生木を裂かれるような哀しみと怒りを、アジアとアフリカの罪もない人々に対する大規模テロと殺戮という国策に転化するのを我々は許してはならない。我々を包囲している状況は、軍事用語では「目標の懐柔」と呼ばれる。ここで「目標」と呼ばれているのはアメリカの民衆であり、我々は間もなく開始されると思われる虐殺のイデオロギー的心理的地均しの対象とされているのである。
 先に述べた打倒の対象となり得ると認定されたアジア・アフリカ諸国は、いずれも民主主義国家ではない。それはどういうことかと言えば、たとえ我々がこれらの国々の政府が火曜日の犯罪行為に共謀していると仮定しようが、これら諸国の民衆は自国政府の政策の展開にほとんどまったく影響力を持っていないということである。これら諸国の近年の歴史を検証すれば、これら諸国の政権の中には、その存立基盤を築くのにアメリカ政府が直接間接に影響力を行使してきた国々があることが分かるだろう。この事実は、特にアフガニスタンのタリバン政権自体に当てはまる。

 

★歴然たる歴史的事実「正義がなければ平和はない」

 ニューヨーク大都市圈には、およそ2100万人の人々、言い換えれば全米人口のおよそ8パーセントが暮らしている。全米国民のほとんど誰もが、火曜日の事件で死傷したり精神的後遺症を遺した人たちの誰かと知り合いなのである。私も私の知り合いが被害を受けたことは分かっている。多くの人々が口々に「復讐」と「報復」を叫び、「やつらを皆殺しにしろ」といった声がテレビ・ラジオ・eメールで飛び交っている。
 少数だが、それ以上に心優しさを秘めた声が「正義」を求めている。この心優しさは表面化しないものに終わってしまう。なぜなら、ブッシュ、コリン・パウエルといった面々が、「正義」という言葉を専売特許のように使うからである。パウエルはベトナム戦争、テロリストであるコントラのニカラグアに対する戦争、湾岸戦争と、歴戦の懲りることを知らない軍人であり、その都度、各種政策の策定と実行に対する権限を強化してきたのである。
 心を痛めている我々みんなが、戦争の拡大と今回の事件よりはるかに大規模な残虐行為を防止するためにできるかぎりの努力を払い、戦争が開始されれば大量殺戮を止めるためにあらゆる努力を傾け、戦中戦後にわたって起き得る戦争犯罪に責任ある者たちを抑え込まねばならない。もし、2001年に大戦争が起こり、破局を迎えなければ(破局を迎える可能性は大いにあり得る)、その戦争の罪過は次の世代にわたつて合衆国が代償を払わせられることだろう。
 これはなんら宗教的予言の類でもなければ脅しでもなく、忌憚のない政治分析である。もし、本当にビンラディンの犯行であるとすれば、世界は彼だけを個人的犯罪者として裁くのではなく、将来この種の攻撃を必然的に増殖させる不正と戦争犯罪の土壌を根絶しなければならない。
 「正義がなければ平和はない」という言葉は、行進の時に使われる単なるスローガンではなく、は歴然たる歴史的事実なのである。このような戦慄的な事件には、もう終止符を打たねばならない。

(おわり)
    (翻訳・鵜戸口哲尚)

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