「日本と私たちのありようの問題として

農業を考えるべき時ではないか」(2)

コスモスファーム・橋本昭さん

(京都府日吉町)に聞く

2000年 12月15日
通巻 1063号

 

農的風土こそ日本人の民族的故郷ではないか

 米の問題と共に、輸入野菜の急増も問題になっているが、スーパーでいえば、例えば一昨日台湾からウナギが運ばれてきて、浜名湖に1泊したらもう浜名湖産ウナギのラベルが貼られて出てくるわけだから、国産と書いてあってもスーパーの中は、特に加工品はもうほとんど輸入品で占拠さ〔カット〕かかしれている。そんなことは一々買いにいった人には分からないから、これは窓口を変えるのが一番いい。ここは郵便局だから銀行のカードは使えませんとハッキリ言うしかない。
 その点では、全国津々浦々に急速に発達しつつある朝市の流れは面白いと思う。誰かが仕かけたのか、みんなが何となく感じいいと行き始めたのか、そこは両方あると思うが、国産主義の1つの現れとして自然ではないかという感じを持っている。ネクタイしめたおじさんでも、ちょっと立ち寄って買っていくという、あれは一種、民族的リフレッシュ感覚を伴っているような匂いがする。
 日本農業に将来がないという感じは僕ももちろんあるが、忙しくてワアーとしている時はなかなか分からないが、何かこうプッツリ仕事が切れたり病気で倒れたりした時に、「あんなことよくやっとったな」と思うようなことが、何か国家的規模であるような気もする。例えば、砂漠だけの国だったら、全然トンチンカンな話だと思うが、日本は圧倒的に農業国としてしっかりやってきているわけで、風土的にも保証されている。
 本当は日本人の遺伝子というのは、アジア的農業風土にあるという気がする。いろんなアメリカ型社会システムが入ってきた中で、みんな辛抱して耐えて、動かん指でパソコン打ってみたり、頑張ってみるわけだけれども、それはすごく耐えているのだと思う。以前に「民族ストレス解放戦線」を創れと言ったことがあるが、東だの西だのじゃなくて、どんぶり勘定しかできない、根回しこそ基本である精神風土の中に、それがよくないみたいな思想を持ち込んだこと自体ストレスだと。
 無意識な民族ストレス解放の衝動みたいなことはいっぱい起こっていると思う。少年犯罪などは自分で回復回路が見つけられないであんな事件に結末するのだろうし、中年、停年前のサラリーマンにインタビューしたら、ほとんどの人間が田舎に帰ってのんびり百姓でもしたいと言う。あるいは、フーテンの寅さんのステテコと腹巻という、らくちんな恰好がものすごく受けたというのは、やはり近代化に対するストレスがあって、「でも、がんばらな」ということでネクタイしめてがんばってきたわけだけれども、常に「心は寅さん的なものでありたいという願望だろうと思う。で、闘うときは高倉健でありたかったわけだし。
 そういう意味で、産業の1つとしての農業には今絶望的な状況しかないわけだけれども、有史以来日本は米を作り農的風土の中でやってきたという伝統と歴史を考える時に、今明治以降急速に受け入れた近代化の中で疲れて「休ましてくれい」と言うとするならば、決して宇宙ステーションの中でくつろごうではなくて、元気がなくなってきているけれども、田んぼがあり、小さな山があるような田舎というのが民族的故郷であろうという感じがする。そうすると将来の問題ではなくて今の問題として、農業問題は単なる食料品の国内自給なり消費という需給関係だけの問題だけではなく、非常に大事な問題になっていると思う。

 

格調高い人間の営みとしての農業の復権


 調べてみたらヨーロッパなんか、ものすごいセーフティーガードをやっている。鹿の被害がひどくて猟友会に撃ってもらうしかないというので聞いたら、鹿を撃っても補助金が少し出るだけで肉は一般に受け入れられなくて弾代が出るくらいだと言う。それだったらヨーロッパに輸出したらどうかと、ジェトロで調べてもらったが、十重二十重にセーフティーガードがあって結局無理だということになった。やっとこの頃日本も少しだけどセーフティーガードに目を向け始めた。これは具体的政策としてがんばってガードしてもらおうと。しかし、小手先の技術として輸入をそういう形で抑えると同時に、これは非常に抽象的になるが、農業というものを1度、前近代・封建制の名残から解き放って、超近代的な人間の営みとしての風格があるものまでに持ち上げる。21世紀にはそれを考えたらどうかと思っている。
 「何だ百姓か」というような価値観の中、米価や農産物の価格の低迷の中で、みんな農業に横を向く。マスコミなんか扱いもしなくなっている。でもやはり、僕らが生きているというのは物を食って生きているわけで、そういう生物性自体が正にリフレッシュの源だし、再創造、リクリエーショナルなものというのは農業そのものだと思う。本当はそういう格調の高いものだ。それが現状の田舎の人たち、あるいは街の人たちも、何か百姓を下に見るというのがほとんどで、その中にいる限りいくらお金が直接所得方式で下りてきても乞食根性が増大するだけで、僕が言うような格調高いものとしての農的営みというものに転換するバネにはならないだろう。エコロジーが進化するか、環境破綻が来るかを契機に、もっと考えてみたら俺たちはやっぱり生き物の1つの種類やないかというリアルな認識に戻って、そこから組み立てる格調高い農業にする。産業革命以降の工業の発展という人類の自負であったりプライドであったりしたものを、どこかで覆してやりたいと、不遜なことを考えている。 


  (おわり)

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