「日本と私たちのありようの問題として

農業を考えるべき時ではないか」(1)

コスモスファーム・橋本昭さん

(京都府日吉町)に聞く

2000年 12月5日
通巻 1062号

転換不能な年齢が日本の農業を支えている

 世界的に見ても日本は面白い歴史を持っていて、鎖国を300年近くやっていたという歴史的実験があって、江戸時代末、明治までは日本列島では自給自足が可能な範囲の人口で社会を形作っていた。そういう歴史を現代と結びつけて考える場合、現代の日本は自給自足が可能なのかという大きなテーマがある。不可能であるならば輸入せざるを得ないし、事実として輸入はどんどん拡大基調になっている。しかし、それは足りないから輸入しているのかという点が問題だろうと思う。  まず、日本農業の現状について言うと、担い手が「もうこんな馬鹿馬鹿しいことは止めだ」とドンドン落ちていっているのが、農業を支えている側の状況だ。これは単純に経済性の問題だけではなく担い手の年齢構成、つまり転換不能な年齢が日本農業を支えているという現実もある。たぶん平均70才を越えているのではないか。加えて次の世代、今サラリーマンをしながら田舎に住んで定年退職を迎える世代が、親の後を継いで同じように稲作をやっていくかというと、給料をもらったりしていろいろ勉強してきた分、採算の合わないことはしない、損することは一切しないという傾向が強い。本当はポスト定年の人たち自身が田舎の農地の保全なり稲作の継続について考えなきゃいけない問題なんだろうという気がするが……。

減反政策から水田利用活性化対策への転換

 それでも、米だけ見れば潜在能力が1200万〜1300万トン、実際に収穫しているのが1000万トン前後で、消費より生産の方が多い。生産傾向としても、もう頭打ちになってきてはいるが、反当たり収量はずっと伸び続けてきた。その結果、米が余る。政府は減反政策で米余り現象に対応し、ガット・ウルグアイラウンドのミニマム・アクセスも受け入れないといけないからさらに減らそうということで、十何年にわたって減反政策を続けてきた。  しかしその後、「水田利用活性化対策」と言い方を変えた。つまり、水田をいつも米が作れるような状態にという要求だったのが、今の稲作技術では田んぼが多すぎる、だから農地を稲作以外にどう活用していくか、というふうに変わった。まだ一般には減反という言葉で言われているが、政府の方針としてはもうそれは減反ではなくて、稲作主義からもう少し違うものを作っていこうと…。減反率が38%、この周辺で40%に近いから田んぼの4割を何とかせえという事態になっているわけで、これは米が余っているから抑えていこうというよりは、日本の農業の質的な転換を図らざるを得ないということになっている。

受動的に耐えるのが、歴史的に作られた百姓の対応

 ところが、ともかく日本の農業というのは歴史的に水稲で、稲を作ることが農業だという認識で、野菜などは農業生産物としては非常に低い位置付けだった。その意味では、日本農業の質的な転換をというのは、ずうっと田んぼをやってきた百姓たちにとっては「非常に大切なお米を作ってきたのに、カボチャなんか作らんならんのか」という位置づけになる。自分たちが農業を変えていこうという百姓側の意志ではなく、政府が言ってきたから受けて立ったというのが、減反政策に対する百姓の対応であり、自分たちの経営戦略であるとか主体的な活動ではない。減反政策や質的転換についても、日本の大半としてはまずそれに従っているというのが現実だと思う。  備蓄も十二分にあり年間消費は減っているという中で、米価は年々下がる。そんなことは普通の経済人では耐えられないことだが、昔からずっと藩なり国なりの意向を受けて農業をやってきたという歴史の中で、自分たちが主体的な経営者としてやっている、或いは人生観として農業をやっているという人たちは、実際にやっている農家の中にはいない。ひたすら夏の暑さに耐え、次々はえてくる草にめげることもなく草取りを続けるような寛大で強力な粘り強い精神みたいなものが、政治的矛盾に対しても同じ物腰で耐えるという構造になっているのではないかと思う。

暮らしの様式、食文化から考え直さないと

 もう1つ、ミニマムアクセスとして米が入ってきていることも米余りの1つの要因だが、一般に言われるようにそれだけが日本の米作りを圧迫しているとは思わない。外圧よりも多分内圧の方が大きいだろうという気がする。その基本は結局食生活。食生活というのは暮らしの様式、つまり何で稼いで毎日生きているかという大きな問題があって、食生活は食生活だけで語れない。衣食住にわたるいろんな生活ともからんでいる。  サラリーマン的に朝7時の電車に乗ってという動きになってくると、勢い朝はご飯炊いたりゴチゴチャ味噌汁作っているよりはパン齧っていこうやと、或いは流行っているのは「抜き」。米食というのは、研いで洗って水に入れて炊いてと、フットワークが軽くない。茶碗にもひっついて洗いにくいし。そういう様式の問題もあれば、洋食がかっこよくて和食はダサイみたいな団塊世代の価値観もあるだろうし、そんなこんなが今の日本人の食生活を形作っている。だから、食生活を変えるというのは、「ご飯を食べよう」と農協が言ってみたりするけれども、なかなか難しい問題をはらんでいる。

 総合的に日本の政治状況、社会状況とかいろんな問いの立て方はあるんだろうが、自分自身がどんな暮らし方、1日の過ごし方をしたいのかという問題の立て方の中から拾っていかないと、どこかの国の体制や自国の体制を批判するという視点からは、なかなか食生活の変化は生まれてこない。1人1人が生まれてきて今日1日を生きているというところから立ち上げていくべき課題として食生活という問題もあるべきだろうし、それを総じた食文化というものも、食材だとかそんなもので決まっているわけではなくて、もっと総合的なものから決まっているんだろとういうことで、単純に米を食えという考え方では通用しないだろうと思う。

大半を輸入に頼っておいて百論を重ねても無意味

 そこで抜けているのは、これまでいろんな機会に言ってきたが、生きとし生けるものは自分が暮らし活動している地域でできたものを食べて、エネルギーに変え、活動している。気候、風土、文化とか伝統という言い方をしても構わないわけだが、それが安定した形だ。そこでできていないものをとなると、輸入するとか運ぶという問題や交渉みたいなことが出てきてトラブルの元となる。今、日本の実情を見ると、5割以上を輸入するという食生活をしている。そんなことをしておいて農産物の価格が下がるだの米が余っているだのと百論を重ねている事自体が、非常に奇妙な現象ではないか。

農業・工業のバランスについての国民的論議が必要

 農業基本法の改正の中で、政府も食料自給率を上げるとは言っているが、あれは問題を取り扱った人たちの希望を述べたというだけで、農水省としての見解、つまり政府見解として本当に合意したのかどうかは非常に疑わしい。結局、農業と工業のバランス、これを日本の立国の基本としてどういうふうに考えるかという国民的議論が対象化されていないんじゃないかと思う。全然バラバラで、自分の会社が儲かるように、倒産しないようにどう生き残るかということばかりに戦々恐々として、立国の基礎となる産業バランスの問題は全く論議されない。急に浮いたような「日本はどんな国だったらいいと思いますか」という文部省的なイメージ集約はするけれども、現実的な日経連もかむような立国論はされていない。  そういうことを基本的に考えていくべきだし、これは右翼左翼の問題ではなくて南北問題として捉えたた方がいいと思う。今、右左の問題はないかのようにマスコミは扱っているが、南北問題は依然として残っている。1つは対象としての南の問題、それからもう1つは内なる南の問題。つまり、ちょっと誤解を招くかもしれないが、我々はアジア人なのかどうかということ。列強に並んでアメリカ人的なものなのか、そもそもアジア人的なものなのかという問題。「アジアの盟主」という場合にも、それは同質なアジアの中でのリーダーなのか、アメリカの小間使いとしてアジア地域に君臨してるのかという選択肢の問題についても、整理する必要があるだろうと思う。

「お父ちゃん、 あんた疲れまへんか?」

 南北問題は「工業と農業」という言い換えも可能だ。工業生産物を売って農産物を輸入するというやり方の中でのトラブルが、南北問題の1つの大きな問題なのだから。我々日本人は戦後、遮二無二近代化を進め、工業化を押し進めてきたが、本当に我々の気持ちとか情緒だとかいうこともその一つだが、環境・生態学的な環境も含めて、今みたいなバランスでやっていっていいのだろうかということを考える時期なのではないか。  大局的な話になるが、僕はもう少し工業をスリムにして農業をクローズアップすべきだと思う。現実は全く逆だが……。東京の経済学者などは「日本の農業は安楽死を待っている」と淡々と言っている。しかし、生き心地、幸せ論とも繋がるのかもしれないが、生き心地はどちらがいいかと言うと、やはり街があって若干の郊外があって奥には豊かな田園があるという方が皆の生き心地がいいのではないか。どこまで行っても工場か商売人しかおらんみたいなことろで、「お父ちゃん、あんた疲れまへんかと」と言いたくなる。  陰極まって陽になる、あるいは陽極まって陰になるという陰陽のダイナミズムから言えば、僕らは生物性を抜け出ることはできないだろうと思っている。メシを食ってクソをすること、オメコするということ、これは何万年も変わっていないし、バイテクががんばってみたって、臓器移植ががんばってみたって、そこから言えば「蚤の一掻き」くらいのことしかやっていない。人間が生物性を乗り越えるというのは、将来ともあり得ないんじゃないかと思う。

(つづく)

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