脱暴力を呼びかける9
「戦争で人を殺すために訓練され人間本来の感情を殺す「男の暴力性」」

「男のための脱暴力グループ」 水野阿修羅

2003年 12月15日
通巻 1164号

走れなかった江戸時代の農民

 「男はもともと暴力的なものだ」という意見が多い。特に動物の例から、「人間」も同じだと思い込んでいる人が多い。本当にそうだろうか?

 私は、日本の「男らしさ」の系譜を調べていく中で、とても面白いことを発見した。江戸時代の庶民(特に農民)は、「走ることができなかった」というのだ。明治になって徴兵制が敷かれ、成人男性に兵役が課せられた。ところが、いくら訓練しても、行進できない、走れない、匍匐前進できない、「回れ右」ができない、ということが分かった。軍当局は、フランスから教官を呼んで教えてもらうのだが、彼らもさじを投げて帰ってしまった。

 武士や飛脚の人たちは、子どもの頃から訓練されたので走れるのだが、子どもの頃訓練されなかった農民は、大人になってからいくら訓練しても無理だったという。

 明治政府は「富国強兵」をスローガンにしていたのだから、これは大問題だ。大人になってからでは間に合わない、というので、小学校に「体育」の授業を設けた。校庭で手を振って「イチ・ニッ」のリズムに合わせて行進する。この時に、右手と右足を一緒に出す歩き方(ナンバ歩き)を、ヨーロッパ人のように歩けるように訓練し、走れるようにしていった。

 しかし、これは兵隊にするための訓練だから、女子には要らないという意見が出て、文部省の中でも論争になったが、「女子には要らない」派が勝って、女子体育は実施されなかった。当然、彼女たちは走れないまま大人になっていった(その後、「立派な兵隊さんを産むためには丈夫な体がいる」ということで、女子にも体操が導入されるが)。

 「女性はスポーツが苦手だ」という神話がこの時につくられる。そして、それを「身体のつくりの違い」として主張する人たちが現れる。

 「人間が本能にコントロールされる」という主張は、人間を動物扱いしている。人間は訓練によって「人間になる」のであって、放っておいて勝手に「大人」になるわけではない。そもそも、人間ほど子ども時代が長い動物はいないのだ。

感情を封じ怒りをためてつくる「暴力」

 話が逸れたが、「男の暴力性」にも同じ事がいえる。

 徴兵で集められた男は、そのままでは人を殺せる「兵士」にならない。「人を殺す」というのは、すごいエネルギーがいるし、あとの反動もすごいものがある。「理屈」で人は殺せない。ものすごい「憎しみ」を持たせるだけで、やはり難しい。

 アメリカ映画の「フルメタルジャケット」は、海兵隊の新兵訓練を描いたものだが、そこで行われる訓練は、教官や上官が兵士をとことん侮辱し、殴りつけることの繰り返しの中で、それに耐えられない者は、自殺するか精神障害を起こし、逆に感情を殺して耐えられた人間が、「立派な人殺し兵士」になっていく様子を描いている。戦前の日本の軍隊も、全く同じようなことをやっていた。

 殴られても「痛い」と感じない(本当は感じているのだが、その感覚を押し殺さないと生き残れない)男が、ため込んだ怒り・憎しみを、「殺しても許される他者」に向けてぶちまけるのだ。 「喜怒哀楽」という感情のエネルギーは、「喜」「哀」「楽」という感情を封じ込めた時、「怒」に集中される。自分の感情を封じ込めた人が「人」を殺せる。家事や育児をすると、この「喜」「哀」「楽」という感情が育ちやすい(育たない人もいるが)ので、こうしたことを女性の専門にし、替わりに女性から「怒」の感情を取り上げる。これが、明治政府の考えた「性別役割分業」システムだった。

人民新聞社

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