連載 台湾・中国・そして日本 その4

カンパニア闘争・実力闘争・地域闘争 (単福)

2003年 12月15日
通巻 1164号

●医者を目指した高校時代

 私は子供の頃から夢がありました。それは、「考古学をやりたい。遺跡の発掘や、歴史を調べていく学者になりたい」ということでした。小学生の頃から歴史、特に古代史が好きで、「郷土クラブ」に入り、古墳などを探索していました。

 しかし成長するにつれて、日本の中では、経済的な問題ではなく、日本社会の矛盾─進学・就職差別─の結果、なりたい職業に就く、ということが容易ではないということが、だんだんと分かってきました。高校で進路希望を聞かれた頃は「考古学は無理だな」と諦めていました。そして、シュヴァィツァーや野口英世、本田良寛のことを知り、医者になろうと決めたのでした。今思えば、自分の学力を全く考えない、世間知らずであったのかもしれません。しかし「在日外国人が日本で生きていくには、就職差別の壁を越えない限りだめだ」ということを感じていましたから、「自営業で社会的に評価される職業を」と考えたのでした。

 当時は、「公務員や大企業に就職するということは無理」とされていましたから、そういう選択肢しか残っていなかったのです。父親に相談すると、賛成してくれましたが、「なるのであれば、普通の医者にはなるな。なるなら釜ヶ崎でやれ」と言われました。「虎は死んで皮を残す。人は死んで名を残す」「人に役立つことをしろ」と言われたのが、強く記憶に残っています。しかし、現実は厳しく、優等生でもない私が、国公立大学の医学部に入るには、学力があまりにも不足していました。私学は、家の財政上、無理であることは分かっていましたから。

 進学についても、中学生の時に、私立の高校を受験する場合、よく教師に呼ばれていました。今考えると親切であったのかもしれません。呼ばれていたのは在日の生徒と、就職希望の生徒でした。学校の選択をする上で、「在日の生徒が入れるかどうか」を教師は知っており、進路相談ということで、言葉に出さずに「誘導」したのだと憶測しています。本人に自由に選ばせるのですが、入れないところはなんだかんだといって反対するのです。

 私は「その高校ならば、試験の点数だけで判断する」と言われたのを覚えています。

●入管闘争から地域闘争へ

 一浪後、一九七二年に、地方の大学へ入学しました。当時、もう学生運動は殆ど終息していました。学内では、学費値上げ反対闘争があり、森永告発、水俣告発等の反公害運動が行われていました。その中で、どういう訳か反入管闘争と反靖国神社法の闘いが、一緒に闘われていました。

 その地方では、海岸沿いに、「海から日本を犯されまい」「不審な人がいたら一一〇番」のような看板が至る所に立っていました。回覧板や広報にも、同じことが書かれていましたし、タクシーには不審者(密入国)通報システムが存在していました。「密航」への監視体制が作られていたのです。

 入管法の上程を巡って、駅頭やバス停でビラが配られていました。デモも行われていました。朝鮮籍の学生の団体である「留学同」(在日本朝鮮留学生同盟)の学生は、「日本人とは一緒にやらない」という方針を持って、彼らだけでビラ配りを学内でしていました。私が「一緒にやろう」と呼びかけても、日本の内政不干渉論と日本人への不信感からか、一緒にすることはついにありませんでした。私も、日本人と一緒にサークルのようなものを作り、活動を始めました。その時主張したことは、街頭でのカンパニア闘争だけではなく、日常的に営まれている生活の中で、民族排外主義を払拭する闘いの必要性でした。「家庭や職場における差別意識・差別構造をどう変革していくのか」、そのことがなければ、何も変わらないだろうと考えていました。

 同時に、日中友好運動をする人はたくさんいて、反入管の闘いに参加していましたが、台湾問題になると「中国内政論」になり、勉強しようとする人が殆どいませんでした。反入管の闘いの中では、台湾の人も多く参加していたにもかかわらず、です。幾人かは反国民党の闘いと連動していたため、台湾に強制送還されるということも起こっていました。送還されれば、即政治犯として囚われることは自明の理でした。台湾の日本による植民地支配は五〇年に及びます。「日帝三六年」の言葉は、よく使われていましたが、台湾問題は前記の理由から、考えようとする人は殆どいませんでした。私は「中国人」という扱いであったように思います。不満はありましたが、目の前の入管法の改定を阻止しなければ、という思いから、あまり強くは言ってきませんでした。

 「キーセン観光」が問題になったのもこの頃でした。ある日、「総勢八七〇人の団体が、私たちの大学のある所から『キーセン観光』に出発する」というニュースが飛び込んできました。すぐに様々な団体、婦人民主クラブや日中友好協会、労組、市民団体と実行委員会を作り、抗議行動を始めました。関西では大きな話題となったようで、各地から「行動に参加したい」というメッセージも多く受け取りました。

 「デモンストレーションで終わるのか、阻止できるのかが問われている」と考えた私は、ある学生のグループ(いつも実力闘争を主張している人たち)に「海上封鎖をしないか」と持ちかけましたが、誰も「やろう」という人は出てきませんでした。幸い、キーセン観光は中止となり、マスコミは「婦人団体、キーセン観光を止める」と報じたのでした。

 この闘いを通して、本当に人の意識を変えていくことと、日常生活の中からの視点の大切さを、ますます痛感するようになりました。(つづく)

人民新聞社

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