日朝友好の隘路の突破に向けて
〜再び、拉致問題に寄せて〜(下)

鵜戸口 哲尚

2003年 1月15日
通巻 1132号

朝鮮半島問題における55年体制のツケと代償?
 現在のマスコミの動向に対して批判的な人は多い。当然である。さまざまな立場から、さまざまな批判がある。だが、その中でも許し難い批判もあることは、言っておかねばならない。
 それは如何なる批判か?己の責任を糊塗し一貫性を偽装するために、マスコミ批判をお題目の如く唱えている輩である。彼らこそが、「よど号グループ」の如き体質を、あるいは我が国における北朝鮮報道における長い沈黙の壁を支えたのである。
 つまり、他人には〈自己批判〉を求めても、己は頑なに自省を拒絶し、ただひたすら批判的な他者に、「嘘つき」「権力の手先」「裏切り者」「民族反逆者」…と罵詈雑言を浴びせて逃げるという、「見るも哀れな」卑屈で無責任ななれの果てをさらすことになる。彼らが常に意識的にマスコミを利用操作してきたことは明白であるし、同時に数限りない嘘をつき、デマ宣伝を撒き散らしてきたことは、言うまでもない。だが、一度たりとて「嘘」を認めたことも、デマ宣伝を流布してきたことに対する責任を取ろうとしたこともないことは、明々白々たる事実である。今回、拉致を「国家犯罪」として認めたことを除いては…。
 なぜこのようなことが長きに亙って可能だったのか? それは無論、朝鮮半島及び日本国内での南北対立の間隙と、日本人の過去の犯罪に対する罪責感に付け入ったからである。政治・経済・外交・軍事・プロパガンダなどの戦略に於いて、意図的に…。つまり、冷戦構造の陥穽をイデオロギー的に利用したということである。むろん、そこにはやむを得ない側面もあったとはいえ、そこに金科玉条の如く依拠しすぎたあまり、却って自民族間の対立・反目を深め、限りない混乱と錯綜を生んだことは否定すべくもない。それは例えば、朝鮮戦争を一方では「祖国解放戦争」と位置付け、他方では「祖国防衛戦争」と位置付けるダブルスタンダードの戦略である。この戦略を発動することに依って、同族間で血を流し合い、国土を限りない荒廃に導き、その後捩れに捩れる自民族間の対立と反目の目を広げた責任を回避したのである。
 その図式の上に、我が国左翼のかなりの部分と所謂〈進歩的文化人〉が逡巡を感じながらも、それを押し殺して乗っかったことが、限りない犯罪的結果を招来したことは歴然としている。このような悲惨な事態を招いた悪循環の根を、我々は勇気と責任感を以て、断固断ち切らねばならない。今回の拉致被害者及びその家族のような何の罪もない民間人が、日朝両国の国家犯罪及び我が国における朝鮮半島問題におけるマスコミ・左翼・進歩的文化人などの55年体制のツケと代償を一身に担わされ支払わせられねばならないのは、余りにも理不尽ではないか。
 私も、これまで繰り返し指摘してきたことだし、また、2、3年前に金子勝が『文芸春秋』に書いた時も述べていたが、今回太田昌国が右派のマスコミの席捲をもたらした左派の責任を厳しく追及していることは、きわめて正しいことである。

所謂「塩見批判」について
 私は所謂「塩見批判」については、正直言って辟易している。「塩見批判」は当然あって然るべきだし、当人もそれを望んでいるだろうし、むげに理不尽に反論を封じ去ったり無視する人物ではないという確信は私にははっきりある。私から見れば、塩見批判に興じている連中のそれは、情緒的な批判や党利党略に依る批判かその付和雷同グループが大勢を占めており、その手の手合いが「塩見批判」を正面から行うのを見たのはほとんど皆無に近い。私は前にも述べたが、塩見に対してよりも、彼らに対しての方が不信感が強いことを繰り返し明言しておく。
 塩見に対する「情緒的」批判は、「独善的」「英雄主義」「無責任」といったものが、特に目に付く。中でも、「独善的」というレッテル張りは、批判者側の本質を露呈している。ほとんどが、嘗てその「独善主義」を御都合主義的に持ち上げ、彼が獄中に囚われていた20年近くの歳月、自分たちは四分五裂を繰り返しながらも、まるで金魚の糞のように、どこかの大小の組織に身を寄せるか関わりながら、彼の存在を無視してきた人々である。そして、出獄後にまたしても彼を巧く利用しようとしてままならなかった連中も多い。
 私は、さまざまな塩見批判の中身を、明確に分類していくことが不可欠だと思う。と言うのは、自分たちの責任と批判をかわし、自己正当化を図るために、「情緒的」な批判を意図的に陰で組織化している者たちも、かなり見受けられるからである。
 私は、動機はともあれ、塩見が朝鮮労働党に過剰コミットしてきたことには批判的であった。これまで公言はしてこなかった。だが、現在のような形ではあれ責任を取ろうとしていることには敬意を表している。
 しかし、窮地に立っている嘗ての同志を売っているといった批判が後を絶たない。馬鹿なことを言うのもほどほどにして欲しい。こういう仲間意識が、北朝鮮の「国家犯罪」を支えてきたのであり、延いてはマスコミの従来の北朝鮮報道の犯罪性をも支えてきたのである。この手の批判者の多くは、嘗ての日本軍国主義・日本植民地主義の犯罪と比べれば…という論調のものが多く見受けられる。これでは、朝鮮労働党も日本軍国主義も同質だと認めているに等しい。しかも、普段は相対主義を批判しながら、都合のいい時には、かかる幼稚で犯罪的な相対主義を持ち出してくるのである。極めつけの議論は、特に「よど号」グループの関与は、オルグであって拉致ではないという論議である。朝鮮人「強制連行」「従軍慰安婦」問題はなく、「徴用」だけがあったのだと言い包めようと執拗に主張している手合いたちの論理と何と似ていることか。こういう論調が、自らの従来の朝鮮半島問題への対応と認識を無条件に庇おうとする意図を秘めていることは見え見えである。一貫して正しい左翼など〈左翼〉ではないし、それ以前に「人間」以下である。「よど号」グループは、今こそ30余年の彼らの生きざまの質と意味が問われているのであり、望郷の念と市民的な保身の念に凝り固まった単なる一犯罪者として惨めに帰国するか、革命家として誇りを持った日朝友好の人柱になれるか、真価が問われる試練の時に立たされているのである。晩節を汚してもらいたくない、自らが選んだ道なのだから…。

 マスコミの論調に警戒感を抱くことは大いに結構である。だが、垂れ流しにされる情報の真偽を、その背後に隠された真実を見極められるかどうかにこそ、1人1人の資質と責任が問われているのである。今の我が国左翼に、アメリカの反体制運動の動向と、民衆の真情が見えないのも、その辺りに原因があるのであろう。独自の認識努力がなければ、体制を問わず、国家イデオロギーとマスコミに翻弄されるだけである。
 現在、共和国の物資の流通、経済、生活状況は、ほぼ日本の敗戦直前の状況に陥っている。朝鮮総連も組織が危殆に瀕し、求心力も坂道を転げ落ちるが如くである。在日朝鮮人の権利擁護団体として再生すべく、日本国内における自民族和解に向かうべきである。そのためには、『論座』1月号で在日本朝鮮人東京都商工会副会長の李修吾(リ・スオ)が述べているように、朝鮮総連執行部は退陣すべきである。そして、在日朝鮮人が一丸となって、朝鮮半島の平和的統一と、真の日朝友好に備えるべきである。
 謝罪とは、加害者と被害者が、痛みを分かち合い、共同責任を取る意志を明確化することである。我が国は法制面は固より数々の差別政策に始まる共和国「敵視政策」を徹底的に検証是正し、共和国側も反日教育を軸に国家統一を図るという路線を修正しなければ、朝鮮半島に夜明けは訪れず、無際限に悲劇が繰り返されるだけである。外交交渉が、恫喝と駆け引きの時代はもはや終わらせねばならない。人民に対する国家犯罪に加担し、その償いをひたすら罪もない民間人に押し付けるという非道は断じて繰り返してはならない。
 私は、この間の多くの在日朝鮮人の友との論議を通じて、痛感したことは、彼らの深い衝撃と慚愧の想いの根拠が、自分たちの家族・民族の悲運と重なって見えていることであった。それは、イデオロギー的なものではないのである。それに比して、我が左翼の朝鮮人問題に関する反差別・反日帝闘争は、果たしてどれ程の質の感情に裏付けられたものであっただろうか。忸怩たる思いを禁じ得ない。これはやはり、侵略され続けた民族の感性と侵略した国家の〈国民〉の感性の落差なのであろうか。
 私は一見袋小路に見える日朝友好の現時点を、日本人が過去の犯罪を体感する契機になればと切に祈る。その契機は拉致被害者が一身に担い胚胎している筈である。
 私は今の北朝鮮の国内統治・外交姿勢を見ると、嘗ての日本軍国主義の亡霊と現代日本の精神的無惨さに挟撃されている想いである。(終)

人民新聞社

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