「上田総括」を読んで

未経験のため馬鹿を繰り返したのは
70年安保世代だけではない

岡山・近藤秀樹

2001年 12月5日
通巻 1095号

(編集部より=長文につき前半の要旨の掲載とさせていただきました。)

 連載は、共産党というものを回転軸としての走馬灯でありましょうが、私のような70年安保世代には宮本共産党というのは侮蔑と憎悪の対象でありました。そういう世界観が条件として与えられていたようです。かつて東京行動戦線のアナーキストが爆弾襲撃をしようとした自民党と創価学会とは特高に命ぜられたからであり、彼らは当初は宮共のみを目標にしていたような状況です。
 そういう中で自分なりにつらつら考えておりますと、階級だ前衛だのマルクス神学が正しいものとすれば、宮共に馳せ参じるのが当然ではあるまいか、ということになりました。これは今でもそう思いますが、生憎とマルクス神学が正しいとは私としては未だに考えておりません。
 問題は、なぜ宮共が侮蔑と憎悪の対象とされていたかです。除名された怨念、連載に述べられている私憤の公憤化が70年安保世代に世界観の条件として与えられていたからです。この私憤が公憤化される仕組みを考察すればよいものを阿波踊りに明け暮れていたために70年安保世代は宮共の先代、徳田共産党や志田共産党の失敗をまんまと繰り返すことになります。
 この怠慢を正当化するのが、傲慢と無知との反射律です。これで連合赤軍の総括という地獄へいざなわれたのです。私が『全労働収益権史論』を著したアントン・メンガーの意地でマルクス神学を徹底して嫌悪するのは、そういう反射律への反発からです。以前、貴紙で井之川巨さんが内ゲバ手打ちを呼びかけたのに私が噛みついたのもそのためです。つまり除名された怨念と反射律との止揚が内ゲバなのですから、それを止めることは火に油を注ぐことなのです。手段のために目的があるので、私憤が公憤になる摩訶不思議の手品です。左翼史に照らせば経験不足の70年安保世代が、その空気に染められてしまったのも分からぬでもありません。真犯人は、連合赤軍の総括でもそうですが、左翼文化という化け物です。
 これによると同世代のトロッキストの見解とすれば、第2次大戦終了直後の有利な革命状況を活かせなかったということでフランス共産党やイタリア共産党と並んで日本のカトリック(セクトに対抗する意味で)共産党は弾劾されねばならぬということらしいのですが、連載の1950年までの軌跡を辿ってもそんな空疎空論が通用するものでもないようです。『党総括』の圧巻である吹田事件でも、日本人なるものと朝鮮人なるものとの違いが分かるのは現場を踏んでおればこそです。



総括から展望への際に

 そういう連載に私個人が興味を引いたのは敗戦直後から6全協まで、グリコはおまけです。盛んに徳田共産党が喚き立てた隠匿物質摘発の最前線の模様、三枝子爵からの寄付地での元特高の自殺、左翼転向組によって編成された湯浅電池の労務管理、地下運動の資金枯渇における命がけのパチンコ、警察署長の兎すき焼きでの煽動、井上光晴の『地の群れ』でも栄養失調で死ぬ中核自衛隊員にちらり覗いていた水害の奇禍を奇貨としての山村工作を伴淳のアジャパーにしてしまう組織系統の不手際、日紡山崎に撒くアジビラ文案での粒々辛苦、狭斜飛田のオールナイト銭湯での夜明かし、トニー谷の家庭の事情で府警本部から繰り出した機動隊員に土下座して停止を頼む駐在警官、等など銘記しております。
 敗戦から朝鮮戦争までの期間、私が青少年であったなら連載と同様な道を辿ったであろうし、党から除名されて反共の鬼と化していたでしょう。除名されてなくても反共の鬼ではあるのですが、マルクス神学が正しければ宮本共産党へという公式見解は、実際の党活動では齟齬を来たらす人間模様ですんなりとはいかないではありましょうし、党なる本義は自分にありとするのは考え方として危険な側面を否定しえないとしても、それはそうであろうと私は思います。
 ここからアナーキストの、日本共産党解放戦線の苦悩より深刻な苦悩、七転八倒の哲学地獄が始まるのですが、これはとまれ連載へ贅沢な注文をするとすれば、いや、中途半端な人間の運命でありましょうから、それはそれで構うまいとは思いますが、総括から展望へという段になりますと避けられまいと思えるのが敵の出方論です。これをまだ老年ではなかった頃の宮本顕治がさも自慢げに滔々とテレビでぶち上げていた印象が私には残っております。インドネシアやチリの惨状の前か後か覚えてはおりませんが、レーニンの手口に倣って構改派、ソ連派、中共派などを党から粛清した後と思います。



「敵の出方論」の問題点

 敵の出方論というのは、レーニンから全ソ議長へ招聘されたのを冷笑して蹴ったフリードリッヒ・アドラーがいたオーストロ・マルクス主義のオットー・バウアーの持論でありました。これで共和制擁護同盟の最精鋭、カール・マルクス大隊が阿修羅の奮戦でドナウ河畔に無残の屍をさらす。ナチの襲来に対して戦わねばならないときには、すでに殺されていたのです。ブレンナー峠に軍勢を配置してヒトラーを抑止していたムッソリーニもいつしかナチに籠絡されて、つまりインドネシアやチリがあって何の敵の出方論でしょうか。
 あなぐり穿鑿すれば、宮本の自慢はやはり共産党が軍事路線を秘して笑中に刃を含むということの自白になるでしょう。マッカーサーは手ぐすね引いて待っていたのです。今さら天皇制打倒を引っ込めるのも焼け野原に流れるラジオ放送、森戸辰男は救国民主連盟の提唱においてすでに展開しているのです。
 未経験のため馬鹿を繰り返したのは、70年安保世代だけの特徴ではないということです。敵の出方論も60年安保の騒乱を式台として、猪木正道が向坂逸郎を駁撃しているところです。腰抜け村山が出るまで邪怪党の正体が分からなかったのも、未熟な青少年だけが馬鹿を繰り返すのではないということです。

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