第2の標的は誰?
  そして何処?

2001年10月8日、ベイルートの独立系新聞
「アズ・サファール」の社説より

2001年 12月5日
通巻 1095号

すべてはアメリカ次第

 タリバーン政権と、アルカイーダのリーダーであり資金源であり政治的宗教的指導者であるウサマ・ビン・ラディンに対するアフガン戦争は、今はもう昔の話である。
 現在の問題は、国境もなく顔も見えない敵に対するこのアメリカの終わりのない戦争の第2の標的は誰なのか?そしてどこなのか?ということである。
 国境もなく顔も見えない戦争ということは、どこで戦争を開始してもいいということを、また、いつ戦争を開始してもいいということを意味している。相手が国であろうが組織であろうが、個人であろうが、何でもいいということを意味している。すべてはアメリカ次第なのである。
 裁判を受けることなく死刑を宣告され、自国民からの反論さえ起こることなく刑を執行され、葬儀もなく廃墟に埋葬される第2の標的は誰なのであろうか?また、どこなのであろうか?
 この戦争は、長い歴史を通じて不当に扱われてきた国家に対する不正な戦争である。不正な戦争であると誰も反論しないのは、非常に明確な証拠があるという理由からではなく、単にアメリカが強いからである。
 アメリカはどこに戦争をしかけるか、誰を敵にするかを恣意的に決めた。アメリカは、テレビ画面と現代技術を使って一方的に人々を戦争に動員し、恐怖心を煽って「抵抗」を封じ込めながら、戦争に対する「国際同盟」を準備し、アメリカが名指ししたものを敵として祭り上げた。そこでは、死の夜と墓のない死者を照らし出す爆発の光線と音がヒーローであった。

 

いわれなき死の烙印

 アメリカは、重要なイスラム外相会議が始まる前夜、そしてラマダンの神聖な月を目前に控えた昨夜、アフガニスタンに対する爆撃を開始した。ラマダンの日没を宣言し信仰深い人々に昼間の断食を終えるよう呼びかける象徴的な大砲からの一陣の風の代わりに、都市や村々や仕事場の爆撃をもって戦争を開始した。アメリカは、そのような不正な戦争を正当化するためにほとんど理想的ともいえる新たな敵を見つけだすことに再び成功した。
 全世界が非難したニューヨークとワシントンにおけるテロは、この世で最も強力な権力に犠牲者の様相を与えた。アメリカは、国連を通じて、この状況をうまく利用した。国連という大義名分は、誰が有罪で処刑されるべきかを、そして誰が無罪とされるべきかを(アメリカへの忠誠を表明し奴隷の身分として生きていくが故に)決める権威を与えている(今、アフガニスタンの空を炎で満たしているアメリカのように)。
 一方、国際社会の感情は、アフガニスタンが被害者であるとみることを拒否した。アフガニスタンは、アメリカの2つの都市における攻撃に対する弁解をすることにあまり熱心ではなかったのだが。そのため、アフガニスタンの人々は、「無限の正義」作戦によってその運命が左右されるにもかかわらず、まるでそれを避けられない運命であるかのように受け止めて、戦争の中で生きている。
 このようにして、今その頭上に大量殺戮ミサイルと遠隔操作スマート爆弾が雨のように降り注いでいるアフガニスタンの人々は、誰からも共鳴されることなく今の状況に甘んじている。彼らは、ほとんどいわれもなく(少なくとも何故殺されなければならないかを認識することなく)殺されたり、死の烙印を押される。
 アフガニスタン「市民」はまるで存在しないかのようであり、まるで家族をもたず、母国をもたず、過去も現在も未来ももたず、ルーツももたないようなどこか他の場所から突然地上に降ってきた存在であるかのようである。
 2000万アフガニスタン人は一緒くたにされ、たった1人の人間ウサマ・ビン・ラディンにまるで凝縮されたかのようである。これらの人々は、まるで世界から必要とされない余計者であるかのようである。ウサマ・ビン・ラディンは、まるであらゆる時代あらゆる場所の中でたった1人のテロリストであるかのようであり、世界の安全と人類の平和の唯一の破壊工作者であるかのようである。
 第2の標的は誰なのであろうか。どこなのであろうか。

 

曖昧な意味と意図

 攻撃は、アフガニスタンで行われている。しかし、我々はパレスチナのことを考え、イラクや他のアラブ諸国やイスラム諸国について心配する。そうした国々では、人々は呪われているようにテロリズムの罪で追及されている。一方で、アメリカという「先生」は、罰する用意をしており、反省しても許さないつもりでいる。
 すでに発表された標的(つまりアフガニスタン。そこでは現在破壊が進行中である)と、まだ公開されていない標的がある。タリバンの支配を終わらせウサマ・ビン・ラディンを殺すというような、すでに発表されている目標の達成だけでなく、地球の奥深く見知らぬ土地に塹壕を張り巡らせているテロリストの根源を探し出さない限り(つまり、地球の奥深く潜んでいるよそ者や逃亡者が孤立させられ、拒絶され、彼らの説教相手である「イスラム教の兄弟」から切り離されるまで)、10月8日の夜に始まった戦争は、アフガニスタンだけでは終わらないだろうと示唆しながら、次の標的に向けた曖昧な意味と意図の言葉が行き交っている。
 21世紀の世界中に対する絶対的な統治権を再び主張したいアメリカ人が我々に言っているように、この戦争は、何年も続くかもしれない終わりのない戦争の最初の一撃である。幸運なことに、アメリカ人は名実ともに典型的な「敵」を得た。その「敵」の統治の仕方は拒絶されており、その政治的言葉は時代に逆行しており時代遅れのものであり、その絶対不変のスローガンは誰も納得させることなく、その公務員は嫌悪されているように見える。彼らのリーダーは、信仰深い指揮官であり、ベールに包まれている。彼自身あるいは彼に関連するすべてのことは、彼が中世、暗黒の時代の名残であることを示している。今の人権の時代、コミュニケーションや輸送革命の時代に生きるに値しない者であることを示している。神が彼の魂を癒しますように。
 第2の標的は誰なのであろうか?どこなのであろうか?

 

心はパレスチナのことを

 攻撃はアフガニスタンに行われている。しかし、心はパレスチナのことを考える。攻撃はカブール、カンダハル、そしてジャジャラバードの上にある。しかし、記憶はバグダッドやバスラのイメージを掻き立てる。
 実際、イスラエルのヘリコプターや戦車がヘブロン、ガザ、ラファ、トルカラム、ジェニンそしてベイト・ジャラを打ち壊しているとき、我々は記憶を必要とさえしない。殉教者、男たち、子どもたち、そして家々の映像は、自由な競争の下でアラブ衛星テレビネットワークで放送されている。これらのネットワークは、初めて、どのような特定の立場にも立たない客観的な声によって語られ、映像を明るみに出すことになるであろう。
 もし特定の立場が必要であるというなら、戦争には両者の立場が存在するのだから、両者の立場を紹介していくであろう。このため、自分を正当化し免責し、そしてパレスチナ人が問題を引き起こしていると言って非難できるよう、イスラエルの人々にもこれらの衛星テレビネットワークの株主になってもらっている。
 第2の標的は誰なのであろうか?どこなのであろうか?

 

幻の敵との戦争とは

 放送関係者は、戦争を外側から描くことにおいてお互いに争っている。曖昧なルールで書かれた計画にしたがって行われる戦争の開始について、いくつかの放送関係者は特別な熱狂をもって語り、また、他のいくつかの放送関係者は明らかな事実を単に伝えるだけという愚かさをもって語る。犠牲者の数にも、破壊された都市の数にも、移住させられた人の数にも、すでに破壊されるものが何も残っていない国における更なる資材の喪失の量にも、彼らにとっては驚きや驚愕に値するものは何もないのである。
 自分自身は犠牲者から顔を見られることなく、また反対に犠牲者の顔を見ることもなく、遠くアメリカからやってきて空爆を行っているこの者達は、真実を見られなくなっている。ちょうど、アメリカの2つの都市で何千という犠牲者をもたらして自爆した者たちと同じように。人は、犠牲者に同情するに違いない。犠牲者とは、初めはテロリストの作戦によってもたらされたものだったが、しかし、今行われていることは、無法者に対する国際法の名の下にアメリカとアメリカの同盟国によって行われている戦争によってもたらされているのである。
 長いあごひげをはやして汚いローブを着た時代に逆行したアフガニスタン人と、そのアフガニスタン人によって、歩くとき透かして見るための小さな格子窓以外の体と顔のすべてを覆う衣服の向こうに閉じこめている女性達と。彼らは同等なのであろうか。
 あらゆる華麗さと富と、無限の火力を用意する軍需工場をもって戦争に邁進するアメリカのヒーロー(その彼は、イギリスという相棒と、煮え切らないフランスという同盟国と、そしてロシアによって導かれた自発的同盟国によって支援され強化されているのだが)とはいったい何なのであろうか。同盟国も友人も支援者もいない、そしてもし消滅したとしても誰も寂しがらないような幻の敵に対して行う戦争とは何なのであろうか。
 前世紀の最後の戦争(湾岸戦争)と、新世紀の最初の終わりなき戦争(アフガン戦争)の間には、非常に多くの面で強い関係がある。新たなアメリカのヒーローが、以前のヒーローの息子であるという事実に加えて、新たな犠牲者と以前の犠牲者にはいくつかの点でアラブという共通した「特徴」がある。新たなヒーローは、以前のヒーローを手本にし、以前のヒーローの経験から学び、以前のヒーローのいくつかの誤りを取り除いて進んでいる。
 基本的な違いの1つは、今度はアラブ諸国は国際同盟の外側にいるということである。実際のところは、恐怖にさまよいながら戦争を求めたり、あるいは戦争に同意したりすることによって「戦争」の内側にいるのだけれども。
 第2の標的は誰なのであろうか?どこなのであろうか?アラブ諸国の中のどこかであろう。そのアラブ諸国は、長い間、国際社会の同盟国であるという名誉にあずかることもできず、逆に、自分を国際同盟とは区別したものとして確立することもできず、国際同盟に加わったり出たりするための条件をはっきりさせることもできなかった。それが問題である。 

(小見出し=編集部)

[ 「特集」トップへもどる

人民新聞社

このページは更新終了しております。最新版は新ページに移動済みです。