書評

『変革の夢を追う
  ――異端教員のあゆみ』
上田 理 著(創生社発行・2000円)
/評者・久慈次郎

2001年 6月5日
通巻 1078号

 この本を一読して、久し振りに物事を考えてみたいという気になった。
 著者の上田さんも私も昭和一桁の、それもど真ん中の5、6年の生まれである。生まれてすぐに15年戦争が勃発、旧制中学生のときに敗戦を迎えるまで徹底した軍国主義教育を受け、私は一端の軍国少年になった。
 天皇のため、国のために死ぬこと以外には、考えることを許されない時代であった。
 上田さんは戦後の状況を「先生を含めてほとんどの大人が自信を失っていた。我々生徒は生き方について誰も教えてくれない状況におかれた」と書いている。だから私たちは「何のために生きるのか、何のために学ぶのか」と考えないわけにいかなかった、とも……。
 大袈裟な表現をすれば、人間上田理の原点がそこにあるのだろう。
 21世紀を迎えた現在、労働組合はあっても労働運動のない時代と言われている。労働戦線の統一という名分のもとに連合が生まれてから、この傾向はますます激しくなった。初代の連合会長山岸某以来、テレビ出演には熱心でも傘下の組合の職場がどのような状況におかれているかについては、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。上田さんが組合はこうあるべしとしたものからは、遠く離れてしまったのではないだろうか。
 上田さんは一貫して権力に抵抗した。革新政党や労働組合の幹部の官僚化や腐敗にも、厳しい態度で望むことを忘れなかった。特に組合が政党の下請機関化することは我慢のならないことであったろう。同好の士と雑誌「交流」を発行しつづけたのも、職場のそれも弱者と目される人たち、すなわち学校でいえば実習助手や校務員、病院なら准看護婦といった人たちの立場に根ざした組合運動の発展を願ったからであろう。
 面白かったのは、三木高校時代の地域や校内のボスとの攻防である。県会議員が十数年もPTAの会長に居座る例は、三木に限ったことではない。三木から国道175号線を13キロほど北上すると社町がある。そこの高校でも県会の大ボスI議員が永年PTA会長を務め、昭和30年代に鉄筋コンクリート3階建ての白亜の殿堂を完成させた。I先生の功労に感謝の念をと、校内にI氏の銅像を作ることになった。ところが参議院選挙の際、議長室で買収資金を手渡したことが発覚、逮捕失脚の憂き目に遭う。銅像がどうなったかは知らないが、そんなことさえなかったら、三木高校にもW氏の銅像が建立されていたことは、十分に考えられるところである。
 本の棹尾を飾る「心に残る人びと」で5人の人の横顔が描かれている。私は不幸にして高田・木村両氏のお人柄に接し、蘊蓄のほどを伺う機会に恵まれなかった。山下氏にしても、免職になった後、裁判や励ます会で顔を会わせた程度である。寡黙な氏にこの人が何故という思いが強く残ったのは私だけだろうか。吉富氏については「昔のよき組合マンの思い出」にあるとおりだろう。清貧の2字の似合う磯田雄先生は「交流」の理論的主柱であった。上田さんの組織力・行動力との合わせ技が、権力に対して大きな脅威になった。
 上田さんの心に残る理由が我々にも理解できる人たちである。
 ところで、私が上田さんを知ったのは、勤評闘争たけなわの1959年である。あれから40余年お互いに古希を過ぎ、死というものに正面切って向き合わなければならない年齢になった。
 老醜をさらさずにいかに生きるか。大きな課題である。
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