【シリーズ】臨界点からの反撃

「大人と子どもの今」(中)

鵜戸口哲尚

2000年 7月5日
通巻 1048号

大衆消費社会、
高度情報化社会、
企業社会との共犯関係

■「自殺」と「殺人」

 思春期の子供たちは無差別殺人衝動に駆られ、大量殺人妄想に憑かれている。そのマグマのような眠れるエネルギーは肥大化の一途を辿っている。大量殺人者の足跡を追ったE・レイトンは、「彼らが訴えているのは、自分に鮮明なアイデンティティが欠けていることと、自分の置かれた社会的な位置に忍従することの拒絶に尽きる」と述べ、元保護観察官・青木信人は戦後日本の少年犯罪の推移を総括し、「犯罪という行為は、日常の中で他者との関係を通じて自己を確認するという術を見失ってしまった者たちにとって、最後に残された唯一の自己確認の『儀式』となる」、「子供たちが変わった、と言われる。しかし、本当に変わったのは、子供たちが生きることを強いられる世界そのものなのではないか」と問うている。
 「自殺」と「殺人」は背中合わせである。最近、電車に女子中学生が忘れて行った少女マンガ誌をペラペラめくると、マンガの主人公の頭に何者かが囁く1コマがあり、「ヒヒヒ…、アナタ、自殺願望と殺人願望が背中合わせなのを知っていますか?」と書かれていた。一瞬、背筋に悪寒が走った。
 思い返せば、近代兵器と金と物量にものを言わせた米が旧インドシナで敗退した’75年という年は、日本では一方で第3次産業就業人口が50%を越え、第1次産業就業人口が激減し、第2次産業就業人口も下降線を辿り始める分岐点であった。つまり、文字通り高度大衆消費社会に突入したのである。それは同時に高校進学率が90%を越えて定着し、小・中学生の不登校が増加に転じ、所謂「いじめ」と「いじめ」に依る青少年の自殺が社会問題化した変曲点でもあった。教育熱が着火し、学校が選別管理機構へと急激に変貌して行ったのである。その後、センター試験導入、大学に入れば車を買い与えるという状況に続くのである。
 私は村上春樹の最悪の読者に近いが、最近ふと目に触れた’79年の処女作『風の歌を聴け』の一節で、精神科医のカウンセリングを受け、「コモリ」から「饒舌」へ、そして「凡人」へと成長(?)する14歳の少年の心理の卓抜な描写には、正直言って脱帽した。無論、村上春樹は団塊世代である。しかし、後の国民的ベストセラー作家の手で’79年という時点でこのような思春期の「心の闇」の描写が成立していたことには、何か偶然とは言えない象徴的な暗合を感じる。そして、少年犯罪は確実に年少化して行った。
 だが、未成年の自殺が80年代に入り激減した事実は注目すべきである。子供は自殺しなくなったのである。無論、子供の中の矛盾がなくなったという意味ではない。だが、ともかく死ななくなったのである。そして、その後未成年の対成人自殺比率は下降線を辿って行った。周知のように、’98年以降の両者の激増は措くとしても……。
 その後、団塊ジュニア世代の思春期を襲った集中豪雨的消費文化の荒波は、誠に凄まじいものがある。前回触れた’83年の任天堂のファミコン発売はその象徴的なものだが、’84年にはマクドナルド外食産業が1兆円企業に成長、’85年にはテレクラが出現、その後’86年の『週刊少年ジャンプ』の400万部突破(最盛時には600万部を越える)、’87年のファミコン1000万台突破と続くが、この時期から 年代のポスト団塊ジュニア世代への移行期の若者心理を考えるとき、象徴的なのは’86年のアイドルタレント岡田有希子の自殺と 年の尾崎豊の自殺を1つの目安とすると、何か見えてくるものがあるような気がしてならない。この2人の死と身近だった世代の目に、それはどう映ったのだろうか?

■子供を消費文化の実験台にした大人

 ’90 年代に入ると、マンガが全出版物の四割近くを占め5000億円産業に成長、テレビでも、「水戸黄門」が死に、若者向けトレンディー・ドラマが優勢化する。若者の生活文化を、スーパーファミコン、マンガ、テレビ、それに電話が占拠することになる。 ’80年代後半以降の所謂バブル時代に、文字通り「学校文化」の機能が実質的に崩壊したことは明白である。それは’86 年に10代の妊娠中絶件数が史上最高を記録し、’89年には高校中退者、’90年には小中学生の不登校児がそれぞれ史上最高を記録したことに端的に示されている。この時期、’89年に起こった女子高校生コンクリート詰殺人と幼女連続誘拐殺人のMの事件は、日本人の記憶から消えることはないであろう。
 自らの子供をターゲットにし、まるで実験台のようにモノとカネと消費文化のメディア(=情報)漬けにした大人の責任は大きい。子供の「現実」を崩壊させ、アイデンティティの危機を見過ごした大人が、若者の未来喪失感と閉塞感に鈍感で、「命の尊さ」とか「心の教育」という時の、「命」「心」という言葉が如何に空々しく無責任であることか!大人は誰1人、特に’80年代に「子供の現実」を解体させた責任は免れ得ない。
 我が国の世代間断絶は、先進国中でも際立っている。団塊世代・新人類・団塊ジュニア・ポスト団塊ジュニア世代とそれぞれ亀裂は拡大する一方である。一方で、’80年代、90 年代に、成人後未婚のまま親元を離れない、所謂パラサイト・シングルが1000万人に達しているのである。この恐るべき日本特有の現象を示す数字も、少子高齢化社会の社会経済的矛盾の大きな一因となっている。また、戦後最大の失業率、日に自殺者90人という現実の中で、若者をめぐる雇用状況も、極めて深刻な事態になって来ている。80 年代後半以降上昇傾向を辿って来た大学進学率が98 年には48%に達する一方、高卒労働市場の崩壊は目を覆うものがある。92 年の167万人から98 年には36万人と、実に求人数の八割が消滅し、今年は27万人の就職希望者に対し、12万人の雇用しかない。彼らはフリーターとなって、高度情報化社会と先鋭化する技術革新の大波の中で、「私=データの受容・変換器ではないか」、「私=自らのクローンに過ぎないのではないか」というアイデンティティ危機に晒されながら、大半がパラサイト・シングルの予備軍になっていくのだろうか?

■神話の崩壊

 それにしても、戦後の経済成長と学歴社会化を支え、親子の共犯イデオロギーを支えた「親よりもマシな社会的・経済的地位を獲得する子供」という神話が崩れ、戦後初めて「親よりもミジメな社会的・経済的地位」を強いられかねない状況に追い込まれてきている「子供」と大人の関係は、どこに向かうのだろうか?今、大人たちは多かれ少なかれ、子供を「理解を超えた不気味な存在」として捉え始めている。一貫して子供の内面世界の探究をしてきた本田和子は「近代家族の構成する『家庭』と、近代的社会装置としての『学校』は、近代的子ども観を具体化し、それに即して子どもたちを近代型市民へと加工する工場として、その機能を発揮するように作られ、またそのために維持されてきた」「近代産業社会を成立させ、その所産として『子ども』を誕生させ、また『近代家族』や『近代学校』の誕生に手を貸した諸要因は、いま、その枠組みが解体され、その機能を喪失しつつある。『子ども―大人関係』だけが、従来型であり、かつ、そうなければならぬという根拠は、一体、どこにあると言うのだろう」と問うている。
 もはや80年代以来の、大衆消費社会・高度情報化社会・企業社会と大人がどう対決を回避し、共犯関係にあったかの総括を抜きにしては、何らかの形での子どもたちとの「現実」の共有はあり得ないし、新たな子ども―大人関係の構築は不可能である。老後どころではない、次の社会の担い手が危殆に瀕しているのである。それこそが真の危機であり、孫のクレジット・カードで暮らす生活を峻拒しなければならない。

(つづく)

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